1-3:中央通りの役割、意義の変遷をおさらいする
2017年03月17日
中央通りから人の気配がなくなってどの位の年月がたったのだろうか。
都城を長い間離れていたためにその変遷にまったく疎いことを知る。
・・・
私が都城を離れた当時は、まだ大丸、寿屋、ナカムラと健在で歩道は人々で溢れていたから尚更だ。
・・・・・・
・・・・・・
さて、先に都城の江戸・幕末時絵図を現在の地図に落した時に再確認できたのは、
● 2017/02/01 <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
中央通り が、幕末とは言わず江戸初期、或いはかなり 古い時代から都城の幹線であった らしいこと。
・・・
ちなみに江戸時代に於ける名称は 「 高岡筋往還 」 とあり、高岡との往来路であったようだ。
広口からは西駅方面へと直角に向きを変え、また南方の八幡町、西町へと弧を描いて繋がっている。
ところで、町中の通り名が他所では通常使われる「通り」「筋」ではなく、「馬場」名なのは何故なのだろう?
明治 と全く新しい時代に生まれ変わり、その 「 高岡筋往還 」 は 明治18年(1885年)東九州を縦断する国道の、宮崎~鹿児島を繋ぐ 国道38号(現269号)の一部として認定される ことになる。
・・・
すなわち町の幹線路はそのまま九州幹線路の一部として組み込まれたわけである。
その後、今の主幹線である10号線に組み込まれるが、道としての役割、意義に変わりはない。
そして 戦後 になり、道の意義を一変させる モータリゼーションの時代 が到来する。
とは言え、当初 町の活性化を担ったのはあくまでも公共交通 だったことを忘れてはいけない。
・・・
が主役で人々の往来が加速度を増して活発化した幸福な時代であった。
上述の前回記事でも記したが、大正には鉄道施設により町に 交通の結節点となる本駅と西駅 ができ、
また駅からはここを起点・終点とする バス路線が町中を網羅 し、町には賑わいが溢れ出すことになる。
市民はバスに乗り、近隣の町々の人々は鉄道とバスの利用で繁華街である中央通りを目指したわけである。
中央通り・広口方向を見る
メインの幹線に町一番の繁華街が作られたことは大きな利点 であった。
これほど効率的な配置計画はない。モータリゼーションの到来は確実にこの都城に味方したのである。
バスを降りればそこに店があり、買い物を済ませ店を出るとすぐそこにバスが来るのだ。
便利だ! いや、便利な上に人々の雑踏を肌で感じられること。この力はデカい!
人の往来と消費活動が一本の線上に あった、それこそは中央通り。
物販をはじめ、飲食、興行等様々な店が立ち並ぶようになるのは誰の眼にも明らかだっただろう。
・・・・・・
・・・・・・
ところが時代は残酷だ。皆が車を持つ マイカー時代 がやって来たのだ。
鉄道に乗って、そしてバスに乗り換えてなんてまどろっこしくて敵わない。
ドアツードアこそ正義。それまで不問だった 駐車場の存在が商業地の死活問題 に。
既に誰もが認識している通り、郊外にできたスーパーマーケットに人は引き寄せられることとなった。
なにしろ駐車場完備の上にあらゆるものが揃っているのだから。
こうなると公共交通時代に効力絶大だった 「 幹線=繁華街 」 構造は厄介者 でしかない。
皮肉にも評価は一変、最大の功労者が最大の疫病神になってしまった のだ。
・・・
そして最後の砦だった大丸も消えた今、中央通りは町の中心を貫くただのバイパスと化した と言える。
なにもしなければ未来永劫、中央通りはただのバイパスであり続けるように思える。
バイパスほど人間味の無い存在もない。大っ嫌いだ。それも町のど真ん中に。最悪だ。
・・・・・・
・・・・・・
ただし、それはなにもしなければ、の話。 何かしらの活路は見いだせるだろうか?
確実に言えるのは、
もはや 「 幹線=繁華街 」 という構造に活路は見いだせない ということに尽きる。
今はまずそのことを市民一人一人に気付いてもらえるかどうか。それが初めの一歩かもしれない。
・・・
幹線であることに疑問を呈し、繁華街であることに疑問を呈して、そして 「=」 にも疑問を呈して、
その先に 未来の 「 中央通り 」 はようやく見えてくると約束できる。
Posted by Kashiwa★da at 16:00 | Comments(0)
| Stocktaking / 現状を読む
都城を長い間離れていたためにその変遷にまったく疎いことを知る。
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私が都城を離れた当時は、まだ大丸、寿屋、ナカムラと健在で歩道は人々で溢れていたから尚更だ。
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さて、先に都城の江戸・幕末時絵図を現在の地図に落した時に再確認できたのは、
● 2017/02/01 <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
中央通り が、幕末とは言わず江戸初期、或いはかなり 古い時代から都城の幹線であった らしいこと。
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ちなみに江戸時代に於ける名称は 「 高岡筋往還 」 とあり、高岡との往来路であったようだ。
広口からは西駅方面へと直角に向きを変え、また南方の八幡町、西町へと弧を描いて繋がっている。
ところで、町中の通り名が他所では通常使われる「通り」「筋」ではなく、「馬場」名なのは何故なのだろう?
明治 と全く新しい時代に生まれ変わり、その 「 高岡筋往還 」 は 明治18年(1885年)東九州を縦断する国道の、宮崎~鹿児島を繋ぐ 国道38号(現269号)の一部として認定される ことになる。
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すなわち町の幹線路はそのまま九州幹線路の一部として組み込まれたわけである。
その後、今の主幹線である10号線に組み込まれるが、道としての役割、意義に変わりはない。
そして 戦後 になり、道の意義を一変させる モータリゼーションの時代 が到来する。
とは言え、当初 町の活性化を担ったのはあくまでも公共交通 だったことを忘れてはいけない。
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が主役で人々の往来が加速度を増して活発化した幸福な時代であった。
上述の前回記事でも記したが、大正には鉄道施設により町に 交通の結節点となる本駅と西駅 ができ、
また駅からはここを起点・終点とする バス路線が町中を網羅 し、町には賑わいが溢れ出すことになる。
市民はバスに乗り、近隣の町々の人々は鉄道とバスの利用で繁華街である中央通りを目指したわけである。
中央通り・広口方向を見る
メインの幹線に町一番の繁華街が作られたことは大きな利点 であった。
これほど効率的な配置計画はない。モータリゼーションの到来は確実にこの都城に味方したのである。
バスを降りればそこに店があり、買い物を済ませ店を出るとすぐそこにバスが来るのだ。
便利だ! いや、便利な上に人々の雑踏を肌で感じられること。この力はデカい!
人の往来と消費活動が一本の線上に あった、それこそは中央通り。
物販をはじめ、飲食、興行等様々な店が立ち並ぶようになるのは誰の眼にも明らかだっただろう。
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ところが時代は残酷だ。皆が車を持つ マイカー時代 がやって来たのだ。
鉄道に乗って、そしてバスに乗り換えてなんてまどろっこしくて敵わない。
ドアツードアこそ正義。それまで不問だった 駐車場の存在が商業地の死活問題 に。
既に誰もが認識している通り、郊外にできたスーパーマーケットに人は引き寄せられることとなった。
なにしろ駐車場完備の上にあらゆるものが揃っているのだから。
こうなると公共交通時代に効力絶大だった 「 幹線=繁華街 」 構造は厄介者 でしかない。
皮肉にも評価は一変、最大の功労者が最大の疫病神になってしまった のだ。
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そして最後の砦だった大丸も消えた今、中央通りは町の中心を貫くただのバイパスと化した と言える。
なにもしなければ未来永劫、中央通りはただのバイパスであり続けるように思える。
バイパスほど人間味の無い存在もない。大っ嫌いだ。それも町のど真ん中に。最悪だ。
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ただし、それはなにもしなければ、の話。 何かしらの活路は見いだせるだろうか?
確実に言えるのは、
もはや 「 幹線=繁華街 」 という構造に活路は見いだせない ということに尽きる。
今はまずそのことを市民一人一人に気付いてもらえるかどうか。それが初めの一歩かもしれない。
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幹線であることに疑問を呈し、繁華街であることに疑問を呈して、そして 「=」 にも疑問を呈して、
その先に 未来の 「 中央通り 」 はようやく見えてくると約束できる。