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島津荘水流百景-005 / 都城東公園

2017年03月24日


     -  都城盆地、葉脈の如き数多くの水の流れでこの地の景が作られていたのではないか。
     -  私はそんな想いが日に日に増しています。
     -  
     -  その想いに至った理由については簡単ではあるけれど次の記事に記したので、宜しければどうぞ。
     -  ● <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
     -  
     -  ということで、都城を離れて数十年、時を失した感もありますが、
     -  ここ都城(島津荘)の街中で見られる水流の景色を少しづつでも記憶していきたいと思います。



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 ※クリックで拡大 「 1200*800 」


前回記事で苦言を呈した南小正門前での姫城川だが、2km程上流へと歩いていくと 「 都城東公園 」 につき当たる。何とも愛嬌も減ったくれもない名前なのが残念だ。
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上の写真に写る左~右の樹々の見える場所は全て公園で、歩行者橋でそれぞれが結ばれている。

   3つの町が丁度公園内で向かい合っており、左手が若葉町、右手が上長飯町、そして真正面奥が一万城町になる。
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   大学で京都に行き、皆が皆賀茂川と高野川が合流する場所を 「 出町の三角洲 」 と言っていた。
   小学生にも笑われる位に 「 三角洲 」 の使い方を間違っているのだが、可笑しいことにこれで誰にも通じた。
    ● KyotoDesign > 京都の観光スポット > 鴨川三角デルタ : ほらっ!未だに(笑)
   「 都城東公園 」、せめて名前は聞いてパッと了解!できるようなもんにして欲しかったところ。


写真では判りずらいかもしれぬが、二つの流れがこの公園内で合流しており、写真の向かって右手が姫城川、左手が大雨時に於ける柳川原川の洪水放水路ということらしい。

   遺憾ながら、私にはこの公園の記憶が全くなかったのだが、公園内に碑文が置いてあった。
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   姫城川の改修工事は、昭和48年(1973年)~平成3年(1991年)の18年間にも亘る工事であったらしい。
   公園の開設年が不明であったが、こちらは市の施設基本情報シートに 昭和57年3月3日 とあった。

   

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   この機会に、姫城川の変遷を航空写真で確認してみようと思い立つ。
   簡単に入手できる 1974年(国土地理院)の写真を現在のそれ(goo地図)を見比べてみたい。

   
   ※クリックで拡大 「 1540*2370 」 ※上から ●現在・地図 ●現在・航空写真 ●1974・航空写真

   ご自分で検証したい方はこちらのリンクを。
   ● 国土地理院 はこちら - 左上「情報」クリックして、「空中写真:1974~1978」を選択
   ● goo地図 はこちら - 左上で「地図」「航空」等を選択

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   姫城川の改修工事が始まってすぐの1974年の航空写真がなかなか面白い。
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   現在の若葉町に当たる範囲では、元々の曲がりくねった川の姿がまだ残っている様子が見て取れる。
   一万城町の範囲は既に改修されたらしく既に現在の姿がそこにあるようだが、
   一本北を流れる柳川原川はまだ昔の姿を残しており、また当然ながら姫城川への放水路も見当たらない。



さて、姫城川を川沿いに上流へと歩いて来たけれど、ここでも 「 川 」 に想う風景には程遠かった。河川改修時に作られたのか河岸の階段状造作物も、堆積した土砂と覆い茂る草木に覆われたままだ。
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せっかく作られた親水空間もこれでは人が近づくことさえできない。公園で遊んでいた子供たちも川で遊ぶことは端っから放棄しているようだった。川と言うには細く弱い流れも、何とも言いようがない。

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運よく近所の方に話を聞けた。この惨状、5年ほど前の豪雨でこうなったとのこと。

   調べてみると、平成22年7月3日のようである。
   そう言えば、幼い頃南小正門前に住んでいたが、南光橋の橋桁近くまで増水したかすかな記憶がある。
 

以前は一面に菜の花が咲いて綺麗だったそうだ。そういった話を聞くと眼前の現実は余計にやるせない。


 
 ※クリックで拡大 「 1200*800 」 : 上長飯町側から若葉町を見る

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第1回目にも書いたのだが、やはり川としての水量が圧倒的に足りない。
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おそらく、姫城川自体が 「 川 」 というより 「 放水路 」 に、という考えで再計画されたのだろうか。

非常時への対処が優先されるのは当然とは思うものの、遥かに時間を共にする日常の姫城川が誰がどこからどう見てもちゃんと 「 川 」 であって欲しいなぁと切に願う次第です、再びここでも。


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Posted by Kashiwa★da at 16:00 | Comments(0) | Photo / 島津荘水流百景

 




1-3:中央通りの役割、意義の変遷をおさらいする

2017年03月17日

中央通りから人の気配がなくなってどの位の年月がたったのだろうか。
都城を長い間離れていたためにその変遷にまったく疎いことを知る。
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私が都城を離れた当時は、まだ大丸、寿屋、ナカムラと健在で歩道は人々で溢れていたから尚更だ。

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さて、先に都城の江戸・幕末時絵図を現在の地図に落した時に再確認できたのは、

● 2017/02/01 <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
むか~しむかし、ここ 都城盆地は湖だった そうな。今からおよそ2万9千年前に姶良火山が大噴火を起こします。これがとてつもない規模だった。ご存知の方も多いだろう、桜島で南北に二分されている鹿児島湾の北側がそのカルデラ跡である。・・・果たして、湖は火山灰で埋まり、志布志湾へと繋がっていた川は塞き…

   1954 都城市史附図より 幕末図


中央通り が、幕末とは言わず江戸初期、或いはかなり 古い時代から都城の幹線であった らしいこと。
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ちなみに江戸時代に於ける名称は 「 高岡筋往還 」 とあり、高岡との往来路であったようだ。
広口からは西駅方面へと直角に向きを変え、また南方の八幡町、西町へと弧を描いて繋がっている。

  ところで、町中の通り名が他所では通常使われる「通り」「筋」ではなく、「馬場」名なのは何故なのだろう?

明治 と全く新しい時代に生まれ変わり、その 「 高岡筋往還 」 は 明治18年(1885年)東九州を縦断する国道の、宮崎~鹿児島を繋ぐ 国道38号(現269号)の一部として認定される ことになる。
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すなわち町の幹線路はそのまま九州幹線路の一部として組み込まれたわけである。

  その後、今の主幹線である10号線に組み込まれるが、道としての役割、意義に変わりはない。

そして 戦後 になり、道の意義を一変させる モータリゼーションの時代 が到来する。
とは言え、当初 町の活性化を担ったのはあくまでも公共交通 だったことを忘れてはいけない。
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が主役で人々の往来が加速度を増して活発化した幸福な時代であった。
上述の前回記事でも記したが、大正には鉄道施設により町に 交通の結節点となる本駅と西駅 ができ、
また駅からはここを起点・終点とする バス路線が町中を網羅 し、町には賑わいが溢れ出すことになる。

  市民はバスに乗り、近隣の町々の人々は鉄道とバスの利用で繁華街である中央通りを目指したわけである。


 
 中央通り・広口方向を見る


メインの幹線に町一番の繁華街が作られたことは大きな利点 であった。
これほど効率的な配置計画はない。モータリゼーションの到来は確実にこの都城に味方したのである。
バスを降りればそこに店があり、買い物を済ませ店を出るとすぐそこにバスが来るのだ。

  便利だ! いや、便利な上に人々の雑踏を肌で感じられること。この力はデカい!

人の往来と消費活動が一本の線上に あった、それこそは中央通り。
物販をはじめ、飲食、興行等様々な店が立ち並ぶようになるのは誰の眼にも明らかだっただろう。

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ところが時代は残酷だ。皆が車を持つ マイカー時代 がやって来たのだ。

鉄道に乗って、そしてバスに乗り換えてなんてまどろっこしくて敵わない。
ドアツードアこそ正義。それまで不問だった 駐車場の存在が商業地の死活問題 に。

  既に誰もが認識している通り、郊外にできたスーパーマーケットに人は引き寄せられることとなった。
  なにしろ駐車場完備の上にあらゆるものが揃っているのだから。


こうなると公共交通時代に効力絶大だった 「 幹線=繁華街 」 構造は厄介者 でしかない。
皮肉にも評価は一変、最大の功労者が最大の疫病神になってしまった のだ。
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そして最後の砦だった大丸も消えた今、中央通りは町の中心を貫くただのバイパスと化した と言える。
なにもしなければ未来永劫、中央通りはただのバイパスであり続けるように思える。

  バイパスほど人間味の無い存在もない。大っ嫌いだ。それも町のど真ん中に。最悪だ。

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ただし、それはなにもしなければ、の話。 何かしらの活路は見いだせるだろうか?

確実に言えるのは、
もはや 「 幹線=繁華街 」 という構造に活路は見いだせない ということに尽きる。
今はまずそのことを市民一人一人に気付いてもらえるかどうか。それが初めの一歩かもしれない。
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幹線であることに疑問を呈し繁華街であることに疑問を呈して、そして 「=」 にも疑問を呈して
その先に 未来の 「 中央通り 」 はようやく見えてくると約束できる。


  

Posted by Kashiwa★da at 16:00 | Comments(0) | Stocktaking / 現状を読む

 




島津荘水流百景-004 / 早鈴町(苦言呈します)

2017年03月10日


     -  都城盆地、葉脈の如き数多くの水の流れでこの地の景が作られていたのではないか。
     -  私はそんな想いが日に日に増しています。
     -  
     -  その想いに至った理由については簡単ではあるけれど次の記事に記したので、宜しければどうぞ。
     -  ● <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
     -  
     -  ということで、都城を離れて数十年、時を失した感もありますが、
     -  ここ都城(島津荘)の街中で見られる水流の景色を少しづつでも記憶していきたいと思います。



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     ※クリックで拡大 「 800*1200 」


♪ 姫城川 川沿いの道 白雲は~~

南小の校歌である。
中学以降の校歌はすっかり忘れてしまったけれど、何故か小学校の校歌は覚えているから不思議。

  私は6年生まで南小の正門前に住んでいたから当然なのかもしれない。川沿いの道、のフレーズが好きだったから。
  まだこの南光橋が木造だった頃のことだ。思い返せばもう半世紀近くになる。


夏には川に入り網で魚を捕って遊んでいたことを思い出す。当り前だが蟹もいた。
毎日ではなかったけれどヤンマもいたし、シオカラトンボなんて当り前のように見かけた。
そしてどこにでもいたのが、イトトンボ。見渡せば数匹は目に留まるほどだった。
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ホタルも飛んでいたし、秋には橋の上から赤とんぼの大群を眺めたことも懐かしい。

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写真は、故郷に帰って久しぶりに訪れてみた姫城川の姿である。
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どうしてこうなった? 黒い水面には油も浮いている。
水量が少ないためか、水も淀んだままだ。土砂が溜まり放題で引っかかったゴミも散見される。

  他所で見た耕作放棄地を思い出した。これは河川版の放棄地と言っても過言ではないだろう。
  そもそも山あいの町の川でこれはなかろう。ショックだ。


実はここまで汚れた川を久しぶりに見たのだが、それが皮肉にも私が育った川だなんて。
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大都市の汚れきった河川が、この半世紀で見違えるように綺麗になったのに比べると、
この真逆の様相を呈する 「 我がふるさと 」 を目の当たりにすると悲しんでばかりはいられない。


        趣味の写真用別ブログにて、とりわけ観光地でもない愛知県の五条川を取り上げている。
        姫城川も、本来であればこういった川であって欲しいと現実を前に思ったので、ここに。

        
        ※クリックで当該ブログページ 「ShoSyoShuSyuSha 037 : いつでも夢を」 を開きます。



この盆地全体の治水計画を全く知らずに言うのも憚られるのだけれど、
この荒れ果てて淀んだ水の流れが放置されているのも何か理由があるはず。どういう計画意図なのだろう。

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まだ若い時に京都だったか大阪だったか、居酒屋で知り合った人が、
「 都城は仕事でよく行ってた。小さな流れで水車に里芋入れて皮むきやってたのを覚えとるよ 」
私は全く与り知らなかったのだが、 「 そうなんですよ~ 」 なんて適当に答えたことを想いだした。

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都城は自然に恵まれた山あいの里にある。水の良い処は食も美味いものだ。

「 都城には美味いもんがある。美味い酒がある 」

自信を持ってこう言えるようになりたい。切に切に。


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Posted by Kashiwa★da at 16:00 | Comments(0) | Photo / 島津荘水流百景

 




島津荘水流百景-003 / 妻ヶ丘町

2017年03月04日


     -  都城盆地、葉脈の如き数多くの水の流れでこの地の景が作られていたのではないか。
     -  私はそんな想いが日に日に増しています。
     -  
     -  その想いに至った理由については簡単ではあるけれど次の記事に記したので、宜しければどうぞ。
     -  ● <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
     -  
     -  ということで、都城を離れて数十年、時を失した感もありますが、
     -  ここ都城(島津荘)の街中で見られる水流の景色を少しづつでも記憶していきたいと思います。



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     ※クリックで拡大 「 800*1200 」


川の流れる場所も高低差のある地では自ずと固定されるのだが、平坦な地での様相は異なる。
水の流れが豊富な平坦地では葉脈のように幾つもの筋が生まれることになるからだ。

  何度も述べているけれど、都城盆地もそう言った地勢にある。 
  これは、私の想う 「 島津荘・水流 」 を考えていく上ですべての前提だ。


つまり、川の流れが固定される地ではほぼ川沿いの道がセットとして町を形作っていく。
しかし幾つもの流れの筋を生み出した町はその限りでなく、全く異なる構成を見せるから面白い。
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即ち、流れに道が沿う処もあれば、町割りの中に取り囲まれて流れる処もあちこちに点在するのだ。

清流で有名な富士山麓の三島・清水町などもその一例と言えるだろう。

    
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ところで、どうして取り囲まれしまったのか? 以下は私なりの仮説である。
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先に述べたように、平坦な盆地の中を水の流れが彷徨って何本もの川を作った。

  当然だが、そう言った地には人が誕生する以前から無数の川が筋となって流れていたと想像できる。

人がやって来た。さて人はこの様な地でどこを歩くだろうか。
そう、少しでも高い処を歩いて行くわけで、そうしてそこがやがて道となる。
ちょっとだけでも低い処を水が流れれば、少しでも高い処を選んで人は道を作るという寸法だ。
 
  鎌倉街道をはじめ古街道がそうだし、明治大正期の鉄道を敷設していった場所もそう。
  人は少しでも水の脅威から遠ざかる。当り前と言えば当たり前だが。


そうこうするうちに時も進み、道沿いには家が立ち並んでいったはずだ。
川と道の間にあった空地は家で埋まっていく。流れは町割りの中に閉じ込められ現在の姿に。

私の仮設である。



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Posted by Kashiwa★da at 17:00 | Comments(0) | Photo / 島津荘水流百景

 




島津荘水流百景-002 / 中原町

2017年02月20日


     -  都城盆地、葉脈の如き数多くの水の流れでこの地の景が作られていたのではないか。
     -  私はそんな想いが日に日に増しています。
     -  
     -  その想いに至った理由については簡単ではあるけれど次の記事に記したので、宜しければどうぞ。
     -  ● <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
     -  
     -  ということで、都城を離れて数十年、時を失した感もありますが、
     -  ここ都城(島津荘)の街中で見られる水流の景色を少しづつでも記憶していきたいと思います。



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     ※クリックで拡大 「 800*1200 」


前回、第一回目の記事で、

 ● ほとんどの場所で護岸工事が施工。その代償として緑 ( 樹木・竹・草花 ) が消滅している。

ということを述べたのだが、数は減れどもまだ昔ながらの風情を残している処もあってホッとしている。
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あちらにもこちらにもこのように河岸にはメダケ(女竹)の姿を見かけたように記憶する。
手入れされて整った景色ではないけれど、自然の美しさに満ちた、これぞ都城の川縁の風景だろう。

無くならないで欲しい。


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Posted by Kashiwa★da at 16:00 | Comments(0) | Photo / 島津荘水流百景

 

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