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「記紀」考02 - 1:邪馬壱国の入れ墨、稲作に覗く華南の民

2017年11月25日

- 古事記は712年、日本書紀は720年に世界創生並びに我が国の建国を綴った歴史書である。
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-  ネットで簡単に調べられるが、これまで全く関心のなかった人のために大まかなあらすじを記しておこう。
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- 幾人かの神様が出ては消えていくのだが、イザナギ・イザナミの2柱が現れ、数々の国や神を生んでいく。
-  ・・・
- ところが或る出産が元でイザナミが亡くなる。イザナギはイザナミを追いかけるが逆に諍いを起こしてしまう。
- ようやく逃げおおせたイザナギは、禊によりアマテラス・ツキヨミ・スサノヲの3柱を生む。
-  ・・・
- アマテラスの孫にあたるニニギノミコトがこの地上界に下りてくることになった。天孫降臨である。
- ニニギの子である海幸彦、山幸彦にも諍いが起きるが、ワタツミの力を借りた山幸彦が家督を継ぐことになる。
- 遂には、その孫であるイワレヒコ、後に神武天皇となる人物が畿内大和に向け東征することとなる。
- ・・・つづく
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-  ところが、古事記・日本書紀を読んでいくと辻褄の合わない処や似た話が繰り返される処など散見されるのだ。
-  実の一人物が2つ3つの人物に分割されたり、複数の実人物が一人の人物に纏め上げられたり。
-  並行してあった史実を直列に並べたり、時代を前後していた史実を一緒くたにしたりひっくり返したり。
-  ・・・
-  よって記紀の解釈は多種多様にならざるを得ないのだけれど、そりゃないだろうと感じるものも多いのが現実で、
-  勿論、私の考えも他人様からは?かもしれぬが、長年あぁでもないこぅでもないと来たからにゃこれはもう致し方ない。
-
- アマテラス、スサノヲは言うに及ばず、イザナギ、イザナミも邪馬壱国の世情を反映させた話である。
- 「記紀」の解釈は多様であるが、私はそこを重要な基点とし日本の歴史を解きほぐしていければと考えている。



 ● ● ●


前回、古事記・日本書紀に描かれた神話のそもそもの始まりは邪馬壱国にあった、とした。また以前に邪馬壱国は九州は筑後、とも述べた。つまり日本という国の歴史は筑後から始まったと言ってよいだろう。

 ● <晴耕雨考>「記紀」考01:アマテラス、スサノヲは誰か
 ● <晴耕雨考>これで決まり邪馬台国:やはり筑後そして日向

ところで日本が産声をあげたその筑後を取り巻いていた当時、世界はどんな様子だったのだろうか。邪馬壱国を中心に連合国家を形成していた北九州だけに視点を限定せず、もっと空間も時間も広く視野を拡げ、外から内を見てみたい。いろいろと見えてくるものがあるはずだ。
 ・・・
まずは空間的・地理的な観点から押さえることとし、今回はその「前編」。その後で、得られたそれらの地理観を歴史軸で更に捉え直したいと思う。

 魏志倭人伝に描かれた邪馬壱国の風俗

少なくとも3世紀の北九州の人々がどのような日常に生きていたかは、魏志倭人伝によって示される。

魏志倭人伝に記された倭国の様子 : 魏志倭人伝の原文の抜粋とその日本語訳を示す

男子無大小、皆黥面文身。 ● 「皆黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている

自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。 ● 古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。

夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。 ● 夏(中国の王朝)の王の少康の子が、會稽に封ぜられた時、断髪して入墨をし、蛟(みずち)の害を避けたという。今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。

諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 ● 入墨は国ごとに異なり、あるいは左に右に、あるいは大に小に、階級によって差が有る

計其道里、當在會稽東冶之東。 ● その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。

其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。 ● その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿の布を頭に巻いている。その衣服は幅広い布を結び合わせているだけであり、ほとんど縫われていない。婦人は髪に被り物をし後ろで束ねており、衣服は単衣(一重)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣である。

種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵・縑・緜。 ● 稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている

其地無牛馬虎豹羊鵲。 ● 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。

兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。 ● 兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている

倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。 ● 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。

有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。 ● 家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。

其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。 ● 人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。

其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。 ● 倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。

出真珠・青玉。其山有丹、其木有柟・杼・豫樟・楺・櫪・投橿・烏號・楓香、其竹篠・簳・桃支。有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味。有獮猴・黒雉。 ● 真珠と青玉が産出する倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、豫樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。

其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。 ● 特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う。まず占うところを告げ、その解釈は令亀の法のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占う。

其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當脆拝。其人壽考、或百年、或八九十年。 ● 集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。

其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。 ● 身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。

婦人不淫、不妒忌。 ● 女は慎み深く嫉妬しない。

不盗竊、少諍訟。 ● 盗みはなく、争論も少ない。

其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。 ● 法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。

尊卑各有差序、足相臣服。 ● 宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。


※ Wikipedia : 魏志倭人伝 - 倭国の様子 より引用。 尚、赤字は今回加飾。

まずは幾つかの聞きなれない言葉の意味を押えておきたい。

 ● 黥面文身 : 入れ墨のこと。特に黥面(ゲイメン)は顔に入れたそれを言う。 ● Wikipedia:入れ墨-起源
 ● 大夫 : 読みはタイフ。中国は周代の官職の一つと言う。 ● 大夫とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書
 ● 夏后少康之子[の故事引用] : 越の起こりとされる故事。鯨面文身は華南海人の風習であると見なされていた。
 ● 青玉 : おそらく翡翠(ヒスイ)であろう。ものとしては勾玉(マガタマ)が思い浮かぶ。
 ● 朱丹 : 自然界で出来る硫化水銀(一応無害)の説が多い。
 ● 令亀の法 : 亀卜(キボク)とも言う。亀の甲を使って占う。 ● 亀卜(きぼく)とは - コトバンク


 ・・・・・・

さて特に注視したい項目が、邪馬壱国の人々が海人であったことの事実と、それ故の顔・体に入れた入れ墨への言及だ。ここから彼らの素性を知ることが可能となる。

 入れ墨はおそらく魏の役人にとっても眼を惹くものだったのだろう、項目のトップで挙げている。

その言及の重要さは、遠く紀元前5~4世紀に中国は華南にあった「呉」「越」の人々の入れ墨に似ていることとの関連だ。彼らは海人でもあったし、加えて華南という稲作文化の先進地の民でもあった。

 呉と越は「呉越同舟」の言葉を残しているので、詳しくは知らずとも馴染みはある。
 呉は紀元前5世紀に越によって滅ぼされ、越は紀元前4世紀に楚によって滅ぼされた。
  ・・・
 ちなみに「臥薪嘗胆」という言葉もここに生まれたという。
 
臥薪嘗胆の故事  ※臥薪嘗胆の意味 - 四字熟語一覧 - goo辞書 より引用
中国春秋時代、呉王夫差ふさが、父の仇である越王勾践こうせんを討つために薪の上に寝て復讐心ふくしゅうしんをかきたて、長い艱難かんなんの末にこれを破った。一方、会稽かいけい山で夫差に敗れた勾践は、苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびにこれをなめてその恥を忘れまいとし、のちに夫差を滅ぼしたという故事から。「臥薪」「嘗胆」ともに越王勾践の故事とする説もある。


 日本に海人文化と稲作技術を持ち込んだ呉人と越人

「黥面」は顔に施された入れ墨、「文身」は体のそれを言うが、これは華南に住んでいた海人の民、呉人や越人の風習だったようである。

 清代に散逸していたものを編纂し直した「魏略」に、倭についての次の記述がある。

  自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語、自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽、断髪文身
  以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也。

 
 魏志倭人伝に「夏后小康之子」の故事引用があったが、ここには「自分たちは太伯の末裔である」とも記されている。
 太伯は呉の始祖、周の古公亶父の子にあたる。故に倭人は大夫と称していたわけである。


例えば、世界を見回してみても珍しい海女の素潜り漁は、日本と韓国の済州島のみ(半島にはなし)に残る。司馬遼太郎:街道をゆく27」の因幡・伯耆の道に、「これは越人の風習」とある。

また呉越では「金銀」よりも「珠玉」を宝としていたようで、私たちが今でも「珠のような~、玉のような~」の言い方をするのは、連綿とその文化的価値観を繋いできたことの何よりの証でもあろう。

 珠は海から、玉は山からとれる宝石。魏志倭人伝には、邪馬壱国で「真珠と青玉が産出する」との記載がある。

魏志倭人伝に描かれた邪馬壱国の風俗を追っていくと、様々な場面で呉と越の風俗との一致を見ることができる。彼らが海を渡り、この日本へやって来たことに間違いはないだろう。

 
  ※クリックで拡大 「 920*760 」 : Fig●環・東シナ海、日本海 - 海人文化圏
  注)「越」は「呉」より南にあった国だが、「呉」を滅ぼした後に北進した。従って図上では反転した記載をしている。

ところで、既に縄文時代前期には日本で稲作が行われていたことが明らかになってきているのだが、これは陸稲での話だ。畑作によって作られる熱帯ジャポニカである。しかしながら今日一般的な水稲にしても次々に事実解明が進み、今から凡そ三千年前には伝来していたものと推定されている。
 ・・・
問題はその水稲・温帯ジャポニカである。遺伝子タイプが全部で8つあると言うのだが、日本の米はその内の3つのみらしい。ところが日本の3タイプの内の一つは朝鮮に存在していない。どうも華南から直接日本へもたらされたと考えるしかない。
2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた調査・・・
 ・・・
SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続く、朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多い。 日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多い。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心である

Wikipedia - 稲作 から引用
70年代末に、唐津の菜畑遺跡、福岡の板付遺跡と相次いで縄文時代晩期地層から初期の水田跡が見つかった。それまで想定されていた年代より500年程遡る、今から凡そ三千年前の水田だ。朝鮮半島での水稲遺構はAD5世紀まで待たねばならないと言うから、となるとやはり直接に華南から日本にやって来た米があると考えるのが素直な考え方となろう。

 その華南から直接来た米が、現在の日本米の大きな割合を占めているそうだ。
 稲作は朝鮮半島から伝搬したと教えられてきたものだったが、昨今ではその嘘が明らかになって来たようである。


ところで、菜畑遺跡も板付遺跡の場所もかなり海の近くであることに気付く。もしかすると、当時の水田は水を管理する上で、海の際に限定されたものであったとも考えられる。技術が進歩し内陸部で水田が作られるようになるのは、まだまだ先の話なのだ。

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 ・・・・・・

この時代に、まだ日本も朝鮮もない。あったのは東シナ海と日本海という海を跨いだ領域の、「呉」や「越」、そして「縄文人」を始めとする海人たちの文化圏の世界。少なくとも三千年前、更にはそれよりも前から。

 ・・・ なのだが、続きは次回以降に。

  


Posted by Kashiwa★da at 17:00 | Comments(0) | Go exploring / 晴耕雨考

 




島津荘水流百景-015 / 祝吉(郡元町)

2017年11月17日


     -  都城盆地、葉脈の如き数多くの水の流れでこの地の景が作られていたのではないか。
     -  私はそんな想いが日に日に増しています。
     -  
     -  その想いに至った理由については簡単ではあるけれど次の記事に記したので、宜しければどうぞ。
     -  ● <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
     -  
     -  ということで、都城を離れて数十年、時を失した感もありますが、
     -  ここ都城(島津荘)の街中で見られる水流の景色を少しづつでも記憶していきたいと思います。



    ● ● ●


    
    
     ※クリックで拡大 「 一枚目:1200*800、二枚目:1200*800)」 : ここは昔懐かしき用水路


冒頭に書いている通り、いつからかこの地にあったであろう水の流れを想像するようになった。
 ・・・
盆地である。人工的護岸で固められる以前、周りの山々から流れ出てくる水はこのシラスで覆われてしまった擂り鉢の中でどのような流れを描いていたのだろうか。私の興味はそこにあるし、実は将来の都城「水流」理想像も素直にそこにあった姿への回帰、再生ではないのかとの感触もある。

    川に関心が向いたのは故郷を出て初めて住んだ町が京都だったことにある。
    同じ盆地なのに川の景観が全く違ったからだ。街の中心を流れる鴨川にも洛西の桂川にも堤(土手)がない。
    これは気になる。 と言うことから、それからは行く先々の川の様子は必ず確かめるように。
     ・・・
    賀茂川には堤があるじゃないかって? でもあれは、付け替えて鴨川に合流(Yの字に)させたため。
    この付け替えの事実は堤のある川が生まれる答の一つで、眼から鱗だった。


これまで何か所か見てきて判るように、町に葉脈の如く存在していた古の「水流」は治水工事を重ねる中でほとんどがその姿を消失してしまっている。あるものは消え、あるものは暗渠へと姿を変えて。

ところが、嬉しいことにこの地にもまだ「島津荘」を彷彿させる「水流」が残されている。ここは市街地(の近場)での唯一の救い、「島津荘」の良心と言ってもよい。


    
     ※クリックで拡大 「 800*1200 」 : 河岸段丘の足元を


祝吉は「島津荘」の治世の中心地だった処である。その北側には鰐塚山麗に源を発した沖水川が流れる。
 ・・・
あと 1km 程も下れば大淀川に合流するのだが、面白いのはここに少し上流の三股町から 3m~程の河岸段丘が見られることだ。

    現在の沖水川左岸(南側)は堤で流れを押えられているのだが、
    元は洪水時は特に、この段丘部まで水が押し寄せていたことが伺われる。


「島津荘」の良心はその段丘の足元に流れる。現地に農業用水路との説明はあるのだが、この流れの正式名称は全く知れない。ホタル生息地として大切に守られていることから「祝吉ホタルの里」の名だと通りがいいようだ。
 ・・・
用水路とあるが全く何もない処に流れを通したものとは思えない。沖水川とこの段丘の間に有した小さな流れをこの段丘下に整えたもののような気がしてならない。ともあれ、実に誇らしい水の流れである。


    
     ※クリックで拡大 「 800*1200 」 : 横断する道との交わり部に親水空間


東から西に流れる用水には数か所南北に道路が横断しているのだが、そこには流れに触れる設えが見える。昔は町のあちらこちらに似たような設えが見られたのであろうか?いついつまでも残しておきたい貴重な遺産だ。
 ・・・
小さくではあるが、下の写真の右側に田の神(たのかんさぁ)も見えている。


    
     ※クリックで拡大 「 800*1200 」 : ここにも奥に階段の設えがある


東は国道269号の少し入った場所から西は元高木原用水路(現在は道路)の高架橋下までの凡そ1.2km。
北には沖水川があり、段丘が北に落ちている故に街からは見えぬ隠れたことが幸いしたのだろうか、秘密の隠れ家。
 ・・・
暑い夏の散歩にも持ってこいだったが、ホタルが乱舞する季節はまた見事なのだろう。


    
    
     ※クリックで拡大 「 800*1200 」 : 水のざわめきときらめき


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Posted by Kashiwa★da at 17:00 | Comments(0) | Photo / 島津荘水流百景

 




島津荘水流百景-014 / 早水公園

2017年10月22日


     -  都城盆地、葉脈の如き数多くの水の流れでこの地の景が作られていたのではないか。
     -  私はそんな想いが日に日に増しています。
     -  
     -  その想いに至った理由については簡単ではあるけれど次の記事に記したので、宜しければどうぞ。
     -  ● <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
     -  
     -  ということで、都城を離れて数十年、時を失した感もありますが、
     -  ここ都城(島津荘)の街中で見られる水流の景色を少しづつでも記憶していきたいと思います。



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     ※クリックで拡大 「 800*1200 (冒頭一枚目は 800*800)」 : ここが早水湧水の場所とのこと
     ※以下、全ての写真はクリックで拡大 「 800*1200 」

現在、早水公園として整備されているこの地、話は5世紀初頭の頃、応神天皇がその美貌を耳にし召し抱えようとしたところ、後に仁徳天皇となる皇太子が一目惚れしてしまい自分の妃に迎えるに至ったという髪長姫の生まれた処になる。

    現在は大仙陵古墳と言う様になっているけれど、一昔までは仁徳天皇陵で有名なあの仁徳天皇。
    日本で一番、と言うより世界で一番でっかいお墓だ。古墳の長さがなんと486m、高さは後円部で35.8m。


その髪長姫が産湯をつかった湧水が上記の写真の場所である。
1枚目に写る看板の左下、2枚目は裏に回りこんで右下に見えているのが、湧水場所らしい。
 ・・・
前回記事の「013 / 祓川(はらいがわ)湧水」と比べてしまうと、正直ちょっと残念な感じは否めない。

    飲料禁止かつ水量の少なさも残念だったが、都城で他にないせっかくの場所なのに「景」が何とももったいない。
    せめて那智勝浦の「ぶつぶつ川」ぐらいの体裁があればなぁ、との思いも。 ● Google 画像検索 - ぶつぶつ川



    
    
    
    
    
    


公園を二分するように幹線道路が走る車道優先の整備には戸惑うが、ここまでが公園の東半分だ。
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赤い太鼓橋の掛かる池が「髪長姫池」(2枚)、ジグザグの渡りのある池が「鷹取池」(2枚)、その下、同じくジグザグ渡りのある「釣鐘池」(2枚)になる。

公園の案内マップがあるので、市の公式ページを記しておこう。案内マップには池名も記載してある。
 ● 早水公園 - 都城市ポータルサイト - 都城市公式ホームページ

ところで、1974年の早水公園はどんな風だったか、やはり興味が湧いてくる。周囲はまだまだ田畑が多く拡がる様子だが、既に道路で真っ二つな様子。おそらくは、高度成長に突き進んでいたこの70年代半ばに於いて、一つの公園として纏めようなどという発想は露ほども無かったのだろうと推測できる。現在の道路拡幅も40年経って今更ということなのだろうか。

    
     ※クリックで拡大 「 1200*1000」 : 1974 航空写真で見る早水公園


では、これから下が公園西側になる。道路を横断し、まずは「御園池」から。
5月はゴールデンウィーク辺りで、青空に紫に咲き誇るあやめの季節ではないのが申し訳ないけれど。


    
    
    
    
    
    


池中に東屋が設けてあるのが「御園池」(2枚)、せせらぎ庭園風に造園してあるのが「茜川」(1枚)、橋が架かり池の周りに遊歩道が設えて得るのが「紫の池」(3枚)になる。
 ・・・
公園内には体育館もあり、また立派な新設の弓道場なども整備中である。歩いてみると、それなりの広さがあることが判り、そして思ったのだ。 「ん?熊本の水前寺公園とか金沢の兼六園ってどのくらいの広さだったかな?似たようなもんじゃないのか?」と。

で、帰って早々に地図で拾ってみた。

    
     ※クリックで拡大 「 1460*2590 」 : 早水公園 と 水前寺公園 と 兼六園


ほら、広さ的には十分張り合えるようなぁ。そりゃ到底イニシャルもランニングも金掛けた日本庭園なんか望んではいないけれど、散歩に最高な一筆書き周遊遊歩道と包み込むような植栽があるなら、天下の庭園たちにも負けないんじゃないかなぁ。無理かなぁ。


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Posted by Kashiwa★da at 16:00 | Comments(0) | Photo / 島津荘水流百景

 




島津荘水流百景-013 / 祓川(はらいがわ)湧水

2017年10月15日


     -  都城盆地、葉脈の如き数多くの水の流れでこの地の景が作られていたのではないか。
     -  私はそんな想いが日に日に増しています。
     -  
     -  その想いに至った理由については簡単ではあるけれど次の記事に記したので、宜しければどうぞ。
     -  ● <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
     -  
     -  ということで、都城を離れて数十年、時を失した感もありますが、
     -  ここ都城(島津荘)の街中で見られる水流の景色を少しづつでも記憶していきたいと思います。



    ● ● ●


    
     ※クリックで拡大 「 800*1200 」 : 秡川湧水、水汲み場から流れを見る


霧島山系の麓に拡がっていた島津荘にも、御多分に漏れず幾つかの湧水がある。
 ・・・
この「祓川湧水」は御池の傍に位置し、その名は神武天皇誕生の際に体を祓い清めたことに由来する。

  ● 伝承地詳細 : 祓原・祓川 高原町|100の伝承地|ひむか神話街道

前回記事、「姫城川」と「柳河原川」のモヤモヤがあるだけに、これぞ川の源、起点だと溜飲が下がる。
だからと言うこともないが、実に清々しい思いに包まれる。

水の清らかさに加え、周りの緑や石も美しい。空気も美味い。いやはや自然が作り出す環境は最強だ。


    
     ※クリックで拡大 「 800*1200 」 : 秡川湧水、水と緑と・・・


思いの外水量も多く、水汲みに来る人も多そうだ。地元の人に愛されていることも伺える。
 ・・・
ところで、日本の水はヨーロッパの水と違って軟水であるとよく言われる。

  ● Wikipedia : 硬度(水) - 水の分類
   ・・・
  ● せっけんライフ : 世界の水の硬度
  ● 水広場 : ヨーロッパミネラルウォーター 一覧

   残念ながら、ネット上では「祓川湧水」の水質の詳細は得られず。
   高原町「水質検査計画」は出てくるのだが、それに対応する検査結果はどこだろう?


だが霧島周辺で採取される水には中硬水~硬水が多いことはその特異な地形・地質のせい。もちろんミネラル分も多く、特にシリカ含有を売りにしているようだ。取りあえず、参考程度には。

   気になったので、ちょっとネットで調べてみた。
    ・・・
   ■ ファミリーマート 「霧島の天然水」 : 160mg / l
   ■ ディノス 「きりしまの名水 始元水」 : 171.2mg / l
   ■ 霧島天然水販売 「極天然水」 : 130mg / l
   ■ 福地産業 「福寿鉱泉水」 : 384mg / l
     ・・・
   ■ 霧島酒造 「霧島裂罅水」 : 39.8mg / l (軟水)
   ■ 湧水町 「丸池湧水」 : 30〜48mg / l (軟水)
     ・・・
   ■ 周辺自治体の水道水はほとんどが軟水。



    
     ※クリックで拡大 「 800*1200 」 : 秡川湧水の水汲み場


    ● ● ● 


    
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「記紀」考01:アマテラス、スサノヲは誰なのか

2017年09月08日

- 古事記は712年、日本書紀は720年に世界創生並びに我が国の建国を綴った歴史書である。
-
-  ネットで簡単に調べられるが、これまで全く関心のなかった人のために大まかなあらすじを記しておこう。
- 
- 幾人かの神様が出ては消えていくのだが、イザナギ・イザナミの2柱が現れ、数々の国や神を生んでいく。
-  ・・・
- ところが或る出産が元でイザナミが亡くなる。イザナギはイザナミを追いかけるが逆に諍いを起こしてしまう。
- ようやく逃げおおせたイザナギは、禊によりアマテラス・ツキヨミ・スサノヲの3柱を生む。
-  ・・・
- アマテラスの孫にあたるニニギノミコトがこの地上界に下りてくることになった。天孫降臨である。
- ニニギの子である海幸彦、山幸彦にも諍いが起きるが、ワタツミの力を借りた山幸彦が家督を継ぐことになる。
- 遂には、その孫であるイワレヒコ、後に神武天皇となる人物が畿内大和に向け東征することとなる。
- ・・・つづく
-
-  ところが、古事記・日本書紀を読んでいくと辻褄の合わない処や似た話が繰り返される処など散見されるのだ。
-  実の一人物が2つ3つの人物に分割されたり、複数の実人物が一人の人物に纏め上げられたり。
-  並行してあった史実を直列に並べたり、時代を前後していた史実を一緒くたにしたりひっくり返したり。
-  ・・・
-  よって記紀の解釈は多種多様にならざるを得ないのだけれど、そりゃないだろうと感じるものも多いのが現実で、
-  勿論、私の考えも他人様からは?かもしれぬが、長年あぁでもないこぅでもないと来たからにゃこれはもう致し方ない。
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- アマテラス、スサノヲは言うに及ばず、イザナギ、イザナミも邪馬壱国の世情を反映させた話である。
- 「記紀」の解釈は多様であるが、私はそこを重要な基点とし日本の歴史を解きほぐしていければと考えている。



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魏志倭人伝は、邪馬壱国(邪馬台国)卑弥呼、そして壱与(台与)という女王が国を治めたとする。

 以下、邪馬壱国、壱与に統一する。

しかしながら、争っていたとされる隣国の狗奴国は男王だと言うし、また古事記・日本書紀に描かれる出雲に於いてもスサノヲ、大国主と男王であることはご存知の通りである。更には卑弥呼の時代から遡ること一世紀以上前の西暦107年に後漢に朝貢したという面土国の師升も男王だ。

 面土国は北九州にあったとされ、時は吉野ヶ里の時代だ。さて・・・
  ・・・
 ちなみに、私は吉野ヶ里は邪馬壱国ではないと思っているのだけれど当時の国の雰囲気は知っておきたい。
 とiいうことで、ここなどは参考になる。 ● ここが邪馬台国なの?佐賀県「吉野ヶ里遺跡」の歴史 | wondertrip


これまで何となくではあるが、諸々の文献や資料を読んでいて他に女王の存在を匂わせるような国はなかったように思う。恥ずかしながら、このことは私にとって盲点の一つであった。

 魏志倭人伝に書かれる邪馬壱国の女王と男弟

さて、魏志倭人伝による2世紀から3世紀半ばまでの邪馬壱国事情については、Wikipedia より

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。

※ Wikipedia:邪馬台国-概説 より

3世紀半ば(AC247or248)の卑弥呼の死という一大局面に於いて、登場するのが「卑弥呼」「壱与」「卑弥呼の弟」、そして「男王」であることに注目したい。

 この「卑弥呼の弟」と「男王」が同一人物なのか別人なのか? 一先ずは同一人物と仮定しておく。

 古事記・日本書紀に現れる神代の女神と男神

ここで一旦魏志倭人伝を離れ、古事記・日本書紀に眼を移してみれば、この3人から伺える邪馬壱国の様子がアマテラス・スサノヲに、更にはイザナギ・イザナミに姿形を変え妙に生き生きとした人物(神だけど)として立ち上がってくるから面白い。

くどくどと言葉で説明するのも実にもどかしいので図表にしてみよう。

 
  ※クリックで拡大 「 1040*870 」 : Fig 01●卑弥呼アマテラス・男弟スサノヲ


ところで、イザナギとイザナミが現れる前に、数々の神々が出ては消え出ては消えていく。これはいったいどういうことなのだろう?

 次々と独神が現れては消え、次に独神5柱、最後に独神2柱の後男女神が5組。
 その最後の男女神がイザナギ・イザナミである。


この時代の日本列島には幾多の国々が出来ては消え、出来ては消えていったことを言っていると推察。そして最後の独神2柱と男女神5組、これを神世七代と言うのだが、これが邪馬壱国の歴代の女王と補佐役の男王を表しているようにも思える。
 ・・・
結局のところ国を存続しえた大元の国は邪馬壱国だけなのだからこうなる。つまりは、その建国神話を編んだのが古事記・日本書紀ということだ。裏も表もない、そういうことなのだ。

 ・・・・・・

さて、イザナギイザナミの男女2柱は共同で国産み・神産みをする。これは男弟が卑弥呼を補佐し邪馬壱国を治めている姿に重なる。

 国産みは勢力下の国々というより交流範囲にある国々を示したもの、後に支配下となり重要な交通路となる島々で、
 神産みは卑弥呼が行った鬼道、即ち予言やお告げの中で現わしたものたちに見える。


ところが卑弥呼の死で邪馬壱国の国内情勢は一変。国を継いだ男弟はダメ出しを喰らい、再度女王の壱与を立てることで国内が治まったというから、下手な国家より共和制であったかもしれない。

 卑弥呼の死はイザナミの死。そしてイザナギの禊からは・・・

卑弥呼が死んだ卑弥呼の死はイザナミの死として古事記に刻まれた。イザナミはカグツチという火の神を産んだ時に陰部を火傷し、それが元で死んでしまうのだが、この火によって死んでしまう逸話は意味深だ。卑弥呼の死、何か争いごとの臭いがして仕方がない。
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それは兎も角、残されたイザナギは死んだイザナミを追って黄泉国まで行くのだが、あろうことか逆に諍いになりイザナミに追われる羽目になる。否が応にもダメ出しされた男弟の姿が重なる。

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イザナミからやっとことで逃れたイザナギは、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぐ。この時に、またぞろ色々な神を産むのだけれど、最後に最も貴重な三貴神と言われる神を産むことになる。誰でも一度は耳にしたことがあるだろう、アマテラスツキヨミスサノヲである。

 他には住吉三神も産まれたとされる。航海の神だ。何故この時に?の疑問も湧いてしまうわね。

ただ、これらの話は古事記のみに描かれており日本書紀には描かれていない。
 ・・・
しかしだ、この「」は話の筋としてはかなり効いている。これまでの過去はチャラになるってことだ。産まれたと言っているが違う。生まれ変わったのだ。禊ぐことで命は一新し再生した。以前の私じゃない、以前の俺じゃない、新生アマテラスであり、新生ツキヨミであり、新生スサノヲってことの証。

 岩戸隠れは卑弥呼の死、そしてアマテラスの変節

卑弥呼の死で、もう一つ記紀に描かれた有名な逸話が思いだされるはず。そう、あの「岩戸隠れ」である。「岩戸隠れ」とはアマテラスがスサノヲの素業の悪さに岩戸の中に隠れたと言う逸話だが、この話の顛末も卑弥呼の死に対処し損ないダメ出しされた男弟の話に思えてならないのは私だけだろうか。

 「岩戸隠れ」が、日食だとか火山の噴火だとかでも良いんだけれど、それじゃまるで御伽噺に過ぎる。
 まぁ、劇をやるなら卑弥呼の亡骸の背後で日食が起きるとか火山が爆発するとかは演出性バツグンに違いないだろう。


そして何故だかこの「岩戸隠れを境にアマテラスの性格が変化してしまっていることに気付く。実に大人しくなるのだ。ほとんど表に顔を出さなくなる。まるで人が変わったように。つまり、アマテラスは「岩戸隠れの前後で卑弥呼から壱与に代替わりしたと言ってよい。卑弥呼は死んだのだ。

 イザナギとスサノヲの正体

ちょっとくどい位に男弟を貶してきたが、私の比定するイザナギスサノヲについて今一度古事記に描かれている逸話を抜き出しておこう。

 以下、古事記記述の時系列順である。
  ・・・
 ● イザナギは死んだイザナミに追われることになるが、無事に逃げおおせて禊。三貴神を産む。
 ● スサノヲの粗暴さは目に余るほどでアマテラスとの間で誓約。一度は身の潔白を証明する。
 ● しかしながらスサノヲの素業の悪さは治らず、アマテラスは天岩戸に隠れてしまう。
 ● スサノヲは高天原の一大事となったこの天岩戸の責任を問われ、ついに高天原を追放に。


どうみても古事記に描かれたイザナギとスサノヲは尋常ではない。

 イザナギに関しては情けなさは感じるもののまだ心情的に寄り添えるのだが、スサノヲはいただけないなぁ。

改めて書き出してみたが、見れば見るほど男弟の姿が浮かんでくる。言うまでもなく、切っ掛けは卑弥呼の死とみて間違いない。
 ・・・
古事記ではイザナギとスサノヲとして分割し2柱の間で時が経過したように描いてはいるが、これら4つの逸話は全て卑弥呼の死により生まれた邪馬壱国に起きた一連の惨状であろう。

 ・・・・・・

ところで、高天原を追放され根の国(出雲)に移り住んでからのスサノヲは人が変わったような聖人君子として描かれている。実はこのスサノヲが真のスサノヲの姿であることは想像に難くない。出雲の王である。
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後に出雲から高天原へと国譲りが行われるのだが、そもそもスサノヲは高天原の出なんだぞという大仰な仕掛けを記紀はここに潜ませている。


  


Posted by Kashiwa★da at 16:00 | Comments(0) | Go exploring / 晴耕雨考

 

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