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<休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた

2017年02月01日

むか~しむかし、ここ 都城盆地は湖だった そうな。

今からおよそ2万9千年前に姶良火山が大噴火を起こします。これがとてつもない規模だった。
ご存知の方も多いだろう、桜島で南北に二分されている鹿児島湾の北側がそのカルデラ跡である。
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果たして、湖は火山灰で埋まり、志布志湾へと繋がっていた川は塞き止められ北へと流れを変える。

 - ちなみにこの時代は氷河期で、それは凡そ7,8万年前から1万2千年前の6、7万年間。
 - 北海道は樺太~大陸と地続きだったらしいが、津軽海峡と対馬海峡はこの氷河期の時は海。
 - 時代で言えば石器時代だが、氷河期の終わりと共に日本はいよいよ縄文時代へと移行する。

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子供の頃は全く不思議にも思わなかったのだが、故郷を出て他の町々を見ては、はたと疑問が。
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■ 萩原川にしろ大淀川にしろ、町の中央を流れずに平地の際を流れているのは何故だろう?
■ それもわざわざ土手(堤と言った方がいいかな)を築いて。明らかに作為を持った位置に流れている。
■ 加えて、やたらと 「 〇〇原 」 の地名が多い。異常なくらい多い。原だらけなのは何故だ?


  
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姶良大噴火によって生まれた都城盆地 だけれど、その性格もこの噴火で決定された。
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起伏の無い平坦な土地には東・西・南の丘陵地から水が流れ込むようになる。
おそらく雨の多い季節はその時々で水の流れが盆地の中を彷徨ったことだろう。
そんな盆地である。水に浸からない僅かでも高い場所は特別な地として認識されていく。
即ち、それらが 「 原 」 である。

 - 菖蒲原、北原町、蔵原、小松原、中原、広原、都原、久保原町、蓑原 等々
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 - 今でも少しは残っているけれど、昔は東から西へと小さな流れが町中に存在していた。
 - 実はあの葉脈の如く東西に拡がっていた水網の地勢こそが都城の最たる特質だったのではないか。
 - 無くなったのがちょっともったいなかったかもとしばし感慨。

しかしながら、そのようなな地。治水こそは最重要の命題 だ。なんとかせねばならぬ。
その努力の結果が今に至る 萩原川、大淀川への付替え だろう。
広大な平地を守るために、丘陵地の際に堤で強制的に水の流れを押し込めた。

 - だが、いつ造られたのかが未だ判らず仕舞い。
 - 江戸初期には既に今の位置にあることは確認したが。(参照資料は後述)

この築造が今日の町を形成する第一歩だったと言える。

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と、一応の結論を付け、まだ若かった私は時々都城の地図を引っ張り出しては眺めていた。
そして一本の流れるような線を地図の中に見出し、これが昔の主要な道の一つだと確信していた。

先日まで(笑)


  <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた



都島から岳下橋を渡り西町を経て高架下をくぐると北東に道は曲がる。
今はもう消滅しているがその延長線上に道は伸び、千日通りへと弧を描いて繋がる一本の如何にもな線。

 - 付け替えられた大淀川はその後も氾濫を繰り返す。今に至ってもである。
 - 昔の道は(例えば東海道もそうだが)水を避けつつもギリギリキワキワに道を設えている。

間違いない。ここに都城の幹線の一つが走っていたはずだ。自信がある!!!

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久しぶりに実家に帰ってみると、神棚の横に 「 幕末都城之図 」 なるものを見つけた。
家がいつもお世話になっている旭丘(ひのお)神社から頂いたと言う。

 - この 「 幕末都城之図 」 だが、ネットのどこかにないかと調べて見つけたのがこちら。
 - ● 全国遺跡報告閲覧:都城市中央東部地区史跡・旧街路等調査報告書
 - ・・・
 - pdf 資料のP11 に 元和元年(1615)と幕末の絵図 が置いてある。
 - また次ページP12には 昭和初期 (年代不明だが敷設線路から推測) の 「 都城市全図 」 も。

私が自信をもって信じていた 「 これが昔の道 」 などどこにもないではないか。
どうしたものか。どうするもこうするも、「 幕末都城之図 」 を検める他あるまい。

そして苦労の末、今の地図に落してみたものがこれだ。


  <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
  ※クリックで拡大 ( 1000*1245pxl )



改めて、都城の町が如何に スクラップアンドビルド を繰り返した来た かを思い知る。

 - 正確に落したかどうかには疑問が残る処もあるのだが、様子はほぼ把握できるはず。

道については諦めていたが、社寺仏閣等も根こそぎに無くなっている事実には衝撃を受けた。
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上記、昭和初期 「 都城市全図 」 の地図上の至る所に番号がふってあり何かと思っていたら、
それらは、「○○跡」「○○跡」「○○跡」「○○跡」・・・・跡だらけである。

 - 理由を考えてみた。
 - ・・・
 - 江戸時代まで取り立てて取り柄の無い小さな小さな田舎の町。
 - ところが大正になってこの地にも鉄道がやって来た。吉都線、大正2年(1913)のことだ。
 - 3年後にはそれが宮崎まで伸びた。大正12年(1923)には志布志線も敷設される。
 - 最後になったが、昭和7年には鹿児島とも繋がり日豊本線が完成した。

鉄道敷設は町を大きく作り変える契機となった はずである。
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小さかった町は鉄道ででかくなった。そして南九州の中核都市として発展することになる。
幸いにして町に後ろ髪を引かれるようなものなどもほとんどない。

壊せ、壊せ!新しい町だ。新しい町を作ろう!壊せ、壊せ!

善い悪いは別にして、そういう気風が都城にはありそうだ。じっくりと地図を眺め直したから判る。

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ちなみに、私の妄想した道もあながち外れてはいないように思う。
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西町からの斜め45度に走る道は私の全くの妄想道でしかなかったけれど、
南北に走っていた道の中で、その千日通りの道が最も西側にあったことが判るから。

 - これより西側には定常的な道(南北の)を作れなかったと見て良いのでは、やはり。




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