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島津荘水流百景-003 / 妻ヶ丘町

2017年03月04日


     -  都城盆地、葉脈の如き数多くの水の流れでこの地の景が作られていたのではないか。
     -  私はそんな想いが日に日に増しています。
     -  
     -  その想いに至った理由については簡単ではあるけれど次の記事に記したので、宜しければどうぞ。
     -  ● <休憩一服> 都城の「幕末の道」を今の地図に落してみた
     -  
     -  ということで、都城を離れて数十年、時を失した感もありますが、
     -  ここ都城(島津荘)の街中で見られる水流の景色を少しづつでも記憶していきたいと思います。



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    島津荘水流百景-003 / 妻ヶ丘町
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川の流れる場所も高低差のある地では自ずと固定されるのだが、平坦な地での様相は異なる。
水の流れが豊富な平坦地では葉脈のように幾つもの筋が生まれることになるからだ。

  何度も述べているけれど、都城盆地もそう言った地勢にある。 
  これは、私の想う 「 島津荘・水流 」 を考えていく上ですべての前提だ。


つまり、川の流れが固定される地ではほぼ川沿いの道がセットとして町を形作っていく。
しかし幾つもの流れの筋を生み出した町はその限りでなく、全く異なる構成を見せるから面白い。
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即ち、流れに道が沿う処もあれば、町割りの中に取り囲まれて流れる処もあちこちに点在するのだ。

清流で有名な富士山麓の三島・清水町などもその一例と言えるだろう。

    島津荘水流百景-003 / 妻ヶ丘町
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ところで、どうして取り囲まれしまったのか? 以下は私なりの仮説である。
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先に述べたように、平坦な盆地の中を水の流れが彷徨って何本もの川を作った。

  当然だが、そう言った地には人が誕生する以前から無数の川が筋となって流れていたと想像できる。

人がやって来た。さて人はこの様な地でどこを歩くだろうか。
そう、少しでも高い処を歩いて行くわけで、そうしてそこがやがて道となる。
ちょっとだけでも低い処を水が流れれば、少しでも高い処を選んで人は道を作るという寸法だ。
 
  鎌倉街道をはじめ古街道がそうだし、明治大正期の鉄道を敷設していった場所もそう。
  人は少しでも水の脅威から遠ざかる。当り前と言えば当たり前だが。


そうこうするうちに時も進み、道沿いには家が立ち並んでいったはずだ。
川と道の間にあった空地は家で埋まっていく。流れは町割りの中に閉じ込められ現在の姿に。

私の仮設である。


島津荘水流百景-003 / 妻ヶ丘町
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